毒と幻想の処方箋~少女ミルダの記録2~

「どうぞ」
「……ああ」

 ミルダがトリストの前にティーカップを置くと、薄暗く死んだような目が濃い赤の水面を見下ろした後、いぶかるような視線でミルダを見た。
魚屋で売られている魚の方が、まだ綺麗な目をしているかもしれない。人間ではないなりに、苦労があるのだろうか。本人から聞かない限り、まだ人間じゃないと決めつけることはできないけれど。
 爽やかで、甘い香りが漂っている。ミルダはトリストの向かいの席にカップを置き、椅子を引いて座った。
 目の前の男を恐れる気持ちはもうなかった。祖父からの手紙が、間違いなく本物だと確信したからだ。ただ、不信感だけがある。
 ミルダはシュガーポットにスプーンを突っ込み、砂糖を山盛りでカップに入れながら様子を見る。ミルクをたっぷり入れる。軽く吹き冷ます。一口すする。……何か言い出すのではないかと黙っていたが、トリストは机に頬杖をついてミルダを見たまま、何も言わない。コミュニケーションに不具合がありそうだ。

「……私を連れて行くって言ってましたけど、トリスト……さんはどこから来たんですか?」
「アウラヴェル王国の、首都近くの街だ」
「え!? 国境をまたいで来たんですか?」

 アウラヴェル王国は、ミルダが住むルグナ村がある国――イゼルド共和国と隣り合った国だ。海に面した交易の国であるイゼルド共和国とは友好関係にあり、国境を超えるのも難しくはない。ミルダはイゼルドから出たことはないが、アウラヴェル産の輸入物を見る限り、豊かな国であろうということは理解できた。

「ラドックがここに居を構えているのなら、またぐ他ない。……言っておくが、俺はお前を連れて行くと決めている。拒絶は許さん。お前が納得するか、しないかだけだ」
「それって……」
「大体」

 反論しようとしたミルダの目の前に、白い指先が突きつけられる。

「子どもひとりでどうするんだ。あの畑で、毒草を育て続けるのか? 村人に家の場所を聞いた時、嫌そうな顔をされたぞ。毒とばかり仲良くする妙な娘だとな」
「そりゃあ、まあ……みんな、あの畑のことはよく思っていないみたいだけど」
「当たり前だ。あの畑は、おおかたラドックがやり始めたんだろうが……人間っていうのは、理解できないものを疎む生き物なんだよ。今の場合、それがお前だ」

 ぐさりと、鋭利な何かが胸に突き刺さったような気がした。カップを持った指が、かたかたと小さく震える。
 そんなこと、とっくに分かっている。祖父がいるときは、その視線は主に祖父に向けられていた。けれど、祖父がいなくなった今、その疎む視線に晒されているのはミルダだ。表面上よくしてくれる人も、いないわけではない。それでも、怖いもの見たさの好奇心、嫌悪、忌避、恐れ――そういったものが、悪意の塊のようになって自分に向けられているのは、ミルダ自身が一番よく知っていた。
 泣きだしたい気持ちになった。祖父が遺した畑を一心不乱に世話することで、そんな状況に晒されていることから目を逸らしていたのに。いきなり現れた男から、正論で殴られてしまった。

「……ううー……」

 言い返したいが、うめき声しか出てこない。その代わりに、カップを置いて、だんだんと机を叩く。
トリストが、ようやくお茶を一口飲んだ。

「その様子だと、気付いていたみたいだな。偉いぞ、嫌われ者の自覚があるのはいいことだ。……それに、今のまま暮らしていけるわけがないとも分かっているんだろう」

 返す言葉もない。祖父がいなくなった今、たかだか十六年生きただけの小娘が、問題なく生計を立てていけるとはミルダ自身思っていなかった。
 祖父についていた客は、祖父が死んだと知って離れていった。ミルダ自身についた客だけでは、とても食べていけるだけの収入にならない。おまけに、唯一持っている土地――畑に生えているのは毒ばかり。身寄りもない。詰みである。――けれど。
 ずず、とカップの縁を五本の指で持ちながらお茶を啜るトリストを、きっと睨む。

「でも、でも……じいちゃんの畑を焼くのは、いやだ……!」 
「……聞き分けのない娘だな」

 トリストが呆れたように言った。カップをテーブルに置く。

「なぜ嫌だと思う? ラドックが遺したものだからか? 自分が育てたかわいい草が燃えるのが惜しいからか? 俺には言えない何かがあるのか? 理由を話してみろ。俺に察せと言うなら諦めるといい、あいにく読心術は持っていない」
「こ、この人でなし……!」
「ああ、人間じゃないからな。それは正しい」

 苦し紛れの罵倒をしたつもりが、正面から返されてしまった。この男は、やはり人間ではないらしい。尖った耳と、どこか人間離れした空気からそれは察していたが……改めて言われると、尖った長い耳に目が行った。

「ちなみに俺の故郷では、耳を凝視するのはセクハラにあたる」
「うそっ!見て欲しいから伸びてるんじゃないの!?」
「お前は、森の中で鮮やかな木の実を見付けたら真っ先に口に入れるタイプだな」

 じゃあ隠しておけよ、と突っ込みたくなったがやめておいた。
 深呼吸をして心を落ち着ける。ミルダは、目の前の人外はどうやら話が通じそうだぞ、と思った。
 考えるには糖分が必要だ。お茶に更に砂糖を入れる。スプーンでじゃりじゃりとかき混ぜて、歯が溶けそうなほど甘い液体を一気に飲み干した後、改めてトリストに向き直った。耳は見ないようにして。

「私が嫌なのは、全部燃えてなくなること。じいちゃんが育てたものが、残らず灰になるのが嫌だ。……別に、この村にいたい訳じゃないよ。嫌われてるのは分かってるし、近所のおばさんは私がいなくなればいいっていつも言ってるし。家と畑があるから住んでるだけ」

 正直な気持ちだった。
 この村に住んでいるのは、そもそも自分の意思ではない。じいちゃんがたまたま、この村に住居を構えていただけの話だ。タイミングが違えば、それはイゼルドの首都だったかもしれないし、トリストが住むアウラヴェル王国だったかもしれない。

「トリストさんは、私が皆になんて呼ばれてるか知ってる?」
「……さあ、知らないな。どんな酷いあだ名で呼ばれてるんだ?」
「〝毒娘ミルダ〟だって」

 沈黙。ミルダはトリストのリアクションを窺った。毒草の世話をしているから、確かに妥当ではあるかもしれないが、ミルダにとっても割と不本意なあだ名である。
 ややあって、ふっと小さく失笑する音がした。トリストがほんの僅かに笑っていた。

「毒娘とは随分な悪名だな。誰ぞを毒殺でもしたのか? 面白いな、俺は気に入ったぞ。毒娘」
「気に入るなよ……私は真面目なのに」

 今度の突っ込みは口から出てしまった。しかし、トリストは気にする様子もなく、ふっふっふと声を出さずに笑っている。大ウケのようだ。
 意を決して伝えたのに、これだけ笑われるとは。ミルダは重ねて不本意である。敬語を使う気はとっくに失せていた。トリストは言葉遣いを気にするタイプでもなさそうだ。

「……ふう。これだけ笑ったのは数年ぶりだ。毒娘、お前は〝全部燃えなければ〟納得するのか?」
「毒娘って呼ぶな!……じいちゃんが生きて、成し遂げようとしていた証がなくなるのが嫌。だから……うん。残るものがあれば、納得は出来ないこともなくもない。本当は嫌だけど」

 トリストは、ミルダのあだ名を気に入ったようだ。そして、彼なりに折衷案を考えているらしい。ミルダから拒否する理由を言葉として引き出し、それを整頓させようとしている。

「それなら話は簡単だ。持って来ればいい」
「え? それはどういう……」
「頭にも毒が詰まっているのか? 簡単な話だ。株を分けて持って来ればいい」
「えっ……でも、毒草だよ? 毒。そんなのが家に生えてたら、トリストさんも嫌われるんじゃ……」

 さりげなく罵倒された気がするが、それどころではない。
 確かにありがたい申し出だし、ミルダ自身も「持っていけたらいいな」とは考えていた。だが、新天地での周囲の目のことを考えて言い出さなかったのだ。トリストに遠慮していたのも、少しだけある。

「俺は医者だ。嫌われるものか」
「えええ!? 嘘だ!」

 思わず声がひっくり返った。この枯れ木のようにくたびれた、何もかもを面倒くさそうにする男は、ミルダにはどうやって見ても医者には見えなかった。

「嘘をついて何になる。長命種の医者は珍しいか?」
「そもそも、長命種が珍しいんだけど……じゃなくて。トリストさんの家、毒草育ててるの?」
「お前は毒だ毒だと言うが、毒は別に恐れるものじゃない。使いようによっては薬になるし、必要であれば栽培もする。この村の凝り固まった田舎者たちには理解できんようだがな……ラドックも、どうしてこんな場所を選んだのか」

 トリストはそう言って、ぬるくなったお茶を飲んだ。その気だるげな視線が、作業机と壁の引き出しに向けられる。

「あれはお前たちの仕事道具だな。引き出しの中身も残さず持って行け。……どれくらいあれば支度できる? 一日か? 二日か?」
「ちょ、ちょっと待って。私、まだ行くって言ってないよね?」
「人間は耳が短いな。毒娘、お前も耳が短くて聞こえていなかったのか? 連れて行くことは決まっている。あとは、お前が納得するかどうかだけだ」 

 トリストが、ミルダをまっすぐに見て言った。
 水底のような、深く暗い青の瞳だ。不思議なことに、光の加減で銀色が差して見える。ミルダは、今までこんな瞳を見たことがなかった。

「そして、お前はもう納得している。そうだろう、ミルダ。お前は利口な娘だ。俺に抵抗しながら、頭の中ではとっくに損切りは終わっている」
「……ぐう……」

 何も言い返せないのが悔しくて、ぐうの音だけ出しておいた。トリストには、悔しげに呻く声に聞こえたかもしれない。なんの抵抗にもならないけれど。
 トリストの指摘は、寸分のずれもなかった。人の心の機微に鈍そうな我が道邁進長命種だとばかり思っていたのに、ミルダが内心で考えていたことを見透かしたかのように指摘したのだ。
 幼いころから暮らした家も、住み慣れた土地も、確かに離れるには惜しい。それが人間の愛着心や、里心というものだ。
 だが、それを塗り潰すほどの人の悪意があった。本人たちは、それを悪意と思っていない。むしろ、悪を取り除く正義であるとすら思っているかもしれない。
 ミルダは、その独善的な田舎の規律が苦手だった。迎合しないことでそれに抵抗していたが、それでも村に留まっていたのは、十六の娘が見知らぬ土地でやっていくのは現実的ではないという自己防衛だ。
 いま、外から突然やってきた見知らぬ男によって、半ば無理矢理押しつけるように言われている。

 ――お前は、こんな村から出て行くべきだ。

 ミルダは意を決して、口を開いた。

「……二日。明日の夜には、準備を終わらせる」
「確かに聞いた。……俺は近くの街に出てくる。お前はひとりで、故郷に別れを済ませておけ。アウラヴェルは遠いぞ」

 気を利かせたのか、付き合うのは面倒だと思ったのか、それともただの気まぐれか、お茶を飲み終えたトリストは席を立ってさっさと家から出て行った。馬を連れてきているらしく、ドアの外から小さな嘶きと、蹄の音が聞こえた。
 目まぐるしく変わった状況を整理し終えたミルダが家の表を見ると、少し離れた位置に立派な馬車だけが残されていた。トリストが、引っ越しの荷物を載せるために持ってきたのだろう。
 口が悪く、人相が悪く、態度も悪いし失礼だが、案外私のことを考えてくれているのかもしれない。
そう思って、ちょっとだけ気持ちが前を向いた。

「……よし。やるか!」

 ぐっと伸びをして、自分に喝を入れた。
 タイムリミットは、明日の夜だ。