祖父が亡くなって、今日でちょうど一か月になる。
ルグナ村の端にある狭い家は、祖父がミルダに遺したものの一つだった。二人で暮らしていた時は少し狭く感じた家の中も、今はやけに広く感じる。
ミルダは今日もきっちり夜明けと共に目覚めて、少し離れた場所にある小さな畑の元に向かった。
「よしよし、ちゃんと育ってるな……虫につかれた時はどうしようかと思ったけど、薬を撒いた甲斐があった」
ひとりごとを言いながら、ミルダはしばらく畑に生えた株の周りを練り歩いた。虫食い一つない葉を見て、まるで自分が世界一の天才ででもあるように満悦そうにして、ふふんと笑う。早朝の時間、周囲には人影ひとつない。
畑のそばに、石造りの水くみ場がある。これも生前、ミルダの祖父が造ったものだ。探検家であった祖父は、探求心が非常に旺盛だった。何とか畑の傍に水を引きたいと、自力で地面を掘って水脈を掘り当てたのだという。ミルダが生まれる前に行われた個人的掘削の一部始終を、祖父は度々話して聞かせてきた。
おかげでミルダは話の内容をすべて覚えてしまったし、耳にタコまで出来そうだった。それでも、こんこんと湧き出す冷たく澄んだ水はとてもありがたい。穴が空きかけたブリキの如雨露の口から水を注ぎ、両手で取っ手を持って危なげなく畑に戻る。
小さな畑とはいえ、ひとりで水を撒いて回るのは一苦労だ。何度か水くみ場と畑を往復して、終わるころには山の際から太陽が覗き始めていた。
起き出した村人たちが、朝の支度を始める音が聞こえる。
ミルダがしゃがみこんで畑の雑草を抜いていると、初老の男が通りかかった。ミルダの家の近所に住んでいる、バラドおじさんだ。日課の散歩をしているようだった。祖父の古い知り合いで、ミルダも昔からよく知っている。
「おはよう、ミルダ。今日も早起きだな」
「おじさんも早起きね。この子たちは、朝イチでお世話してあげないといけないから。じいちゃんの畑を荒らすわけにもいかないし」
「ああ……ラドックがあっちに行って、もう一か月か」
祖父の姿を思い出しているのか、バラドは朝日が昇り始めた空を見上げた。
「大変なことはないか? 何かあれば言えよ。おじさんが助けてやるから」
「ありがと、バラドおじさん。でも、ぜんぜん平気。だって……ほら」
ミルダはそう言って、近くの株の一つから、葉っぱを一枚ちぎった。子どもの手のひらくらいの大きさで、ぽってりとした肉厚の葉だ。色は、鮮やかすぎる緑色。それを、得意げな顔でバラドに差し出す。
「こんなに立派に育ってるし!これ、いる? 傑作だよ!」
バラドの表情がひきつった。
「い、いや。それは遠慮するよ、さすがに……ミルダの商売道具だろ? おじさんがもらっちまったら、おまえは損をするし……おっと、そろそろ帰らないとカミさんに怒られる!」
そう言って、バラドは来た時とは打って変わって、風のように早足に去って行った。
「お金なんて取らないのに……」
ミルダは残念そうに呟いて、手の中の葉っぱをなでなでと指先で撫で回した。産毛がちくちく刺さって少し痛かった。
ちぎり取った葉っぱを、蔓で編んだ籠の中に放り込んだ。そのまま畑に生えた植物たちをじっと睨むように順番に見て、「これはもう大丈夫」「これはまだ」と選別して収穫していく。鈴のように連なっている実を収穫する時などは、ニコニコと思わず笑顔がこぼれた。これは結構いい金になるのだ。
籠がいっぱいになる頃、畑の近くの家のドアが開いた。中から出てきたのは、腰の曲がった白髪の老婆だった。老婆はいっぱいになった籠を背負ったミルダを見るなり、心底嫌そうな顔をした。
「ああ、いやだ。朝から不吉なもんを見ちまった」
「おはよう、オルヴァおばさん! 今日も大収穫だよ!」
「なにが大収穫だい。それが作物だったら、どれだけ良かったか……」
元気に挨拶をするミルダに、オルヴァは素っ気なく吐き捨てた。忌々しそうですらある。
「作物みたいなものじゃない。おばさんはそうやっていつも嫌がるけど」
「当たり前だろ」
オルヴァが、ミルダの籠を指さした。
「お前が作ってるものは、ひとつ残らず毒草じゃないか!」
ミルダは、無言で籠を背負い直した。摘んだばかりの毒草が、かさかさと擦れた。
***
ミルダが世話をしている畑には、十数種類の草木が生えている。それは祖父が持ってきた種や株を植えたもので、物心ついたころからずっと育てている。
そしてそれらは、全てが有毒だった。中には、人がうっかり口にすれば死に至るものもある。ミルダ自身、うっかり手を切って傷口が膿んだことも一度や二度ではない。
後ろ手に玄関のドアを閉めると、ミルダはため息を吐いた。
「あーあ……オルヴァおばさん、どんどん機嫌悪くなっていくなー。じいちゃんがいたころはもう少し普通に対応してくれたのに」
色とりどりの葉っぱや実が入った籠を肩から下ろして、中身を広げた麻布の上にひっくり返した。そして手袋をして、種類ごとに丁寧により分けた。
毒草畑の話は、村の中では評判だった。もちろん、悪い方の評判だ。
普通であれば、人は有毒のものを忌避する。常に死や痛みのマイナスイメージが纏わりつくからだ。それをミルダは、全く恐れる様子もなく、なんなら楽しそうに育てて摘んでいる。そして、村人たちは摘んだ毒草がどうなるのか知らない。知ろうとも思っていない。
いつからか、ミルダは陰でこう呼ばれるようになった。
――毒娘ミルダ。
数か月前、祖父が病に倒れた時も、村人は噂した。あの娘が毒を盛ったのではないかと。
ミルダにもその噂は聞こえていたが、気にしていなかった。事実ではないからだ。ミルダは幼い頃から、細かいことは気にしない性格だった。自分が真実を知っていればそれでいいとも思っていた。
そして今から一か月前に、祖父はたったひとりの孫に看取られて旅立った。埋葬のとき、見送りに来たのもほんの数人だけだった。
ルグナ村は、辺境の小さな村だ。過疎化の一途をたどっており、年々人口は減っていっている。田舎ならではの村社会、横のつながり、排他的な村人の態度。人は往々にして共通の敵を見付けたがるものだが、その矛先が向いていたのがミルダの家でもあった。
ミルダには、物心ついたときから両親がいなかった。唯一の身内は祖父ラドックだったが、それも既に失った。ミルダがいま、比較的落ち着いて暮らせているのは、覚悟ができていたからだ。ラドックは病に臥してからというもの、自分がいなくなった後のことを繰り返し話してミルダに教え込んだ。ミルダはまだ十六だが、祖父の死後のことを具体的に何度も聞いているうちに「そういうものか」と受け入れて行った。腹の据わり具合は祖父譲りかもしれない、とミルダは思っている。
本棚にぎっしり並んでいる分厚い本も、ラドックが遺したものの一つだった。
毒草を丁寧に分け終えて部屋の脇によけ、一仕事終えたというように大きく伸びをした。それからミルダはその中の一冊を手に取って、ばかっと真ん中あたりで大雑把に開いた。
「えーと……ああ、これこれ」
ぱらぱらとページをめくり、繰り返し開いて古びたページに、何かの名称と分量が書いてあった。
軒先で干していたシスイの葉は、いい具合に乾燥して濃い紫になっていた。赤く熟れたサラドの実も、水分が飛んで赤い宝石のようにかたくなっている。いずれも、誤って口にすれば体に害がある有毒植物だ。それらを軒先から取り込んで、部屋の奥のテーブルの上に並べた。ミルダは、出来栄えににまにまと笑っている。
ミルダは、毒を売ることで生計を立てていた。
正確には、毒から作られる生薬を売ることで生活の糧にしている。毒草は、ミルダにとって悪でも禁忌でもなかった。祖父の教えがあるからだ。
「毒は、使いようによって人を助けるものになる」そう言って、ラドックは畑を育てていた。ミルダもそれを手伝った。
ミルダは医療には詳しくない。けれど、毒と作用に対する知識はあった。時には自分の体でその作用を実感することもあったし、今では自分で解毒できるようにもなった。
今日は客が一人、約束のものを引き取りにくる。それまでに準備をして、問題なく渡せるようにしておかなければならない。
すり鉢に赤い実を入れて、ごりごりとすり潰す。皮と種子ごと細かく粉にすると、続けて紫の葉を細かく刻んで微細な粒になるまで砕いた。机の横の壁には、一面に小さな引き出しがある。その一つを開けて、白い粉が入った袋を取り出した。
次に秤を引き寄せ、薄い紙を敷き、慎重に分量をはかる。手元に用意したものを、本のページに書いてある通りにはかって、それから別の器に全て入れて丁寧に混ぜ合わせた。
小指の先にその粉をつけて、舌の先につけてみる。独特な香りがして、ほんのりと甘苦い。
まあ、こんなもんだろう。ミルダは慣れた手付きで作った粉を紙で包み、丁寧に袋に納めた。ついでに、今朝収穫したばかりの新鮮なサラドの実がついた枝も用意した。
「よし、あとは待つだけか。……じいちゃんありがとう、お陰で私は生きてます」
調合テーブルの傍の棚には、ラドックの写真が置いてある。それに向かって手を合わせて拝んでから、ミルダはキッチンに向かい、ようやく朝食を摂った。数日前に買ったパンは、乾燥して硬かった。
それからしばらくして、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ。開いてますよ」
ミルダが声を掛けると、ゆっくりとドアが開いて、やせぎすの男が入ってきた。背は高いが、体にはほとんど肉らしい肉がついていない。服装はきちんと整っているが、いやに不健康そうに見える。
「……約束のものを取りに来た」
「はいはい、出来てます!出来立て。サラドの実も用意したよ」
男は頬がこけた浮かない顔付きをしていたが、ミルダの言葉に嬉しそうな表情をした。
「それは助かるな。……これ、代金だ。ミルダの薬が一番効くんだ」
「確かにいただきました。……奥さんの調子は? 大丈夫なの?」
男は首を振った。
「分からない。医者も、病気が原因じゃないって言う。俺はおかしいって何度も言ってるんだがな」
そう言って、男もむせるように小さく咳をした。
ミルダが作った粉剤は、男の妻に服用させるものだ。比較的最近ついた客で、ラドックが出先で知り合ったらしい。粉剤の材料は、ある程度の分量を一度に摂取すると有害になる毒草だが、適量であれば有効に作用する。ラドックが調べて、まとめた知見だった。その出所がどこか、ミルダは詳しくは知らないが。サラドの実は特有の刺激臭があり、軒先につるしておくと害虫や獣が寄り付かなくなる。
それから少し世間話をして、男は散剤と枝を持って帰って行った。しばらく保つくらい渡したので、次に連絡があるのは季節の変わり目くらいだろう。
先ほど部屋の端によけた毒草たちを紐で結んで、軒先に吊るす準備をしておく。今日の仕事は、もう終わったも同然だ。機嫌よく鼻唄をうたいながら片付けをしていると、不意にドアが開いた。
男が忘れ物でもしたのだろうか?
「はあい。どうしたの、何か――」
開け放されたドア。そこに立っていたのは、やせぎすの男……ではなかった。
鉛色の癖のある髪に、白い肌。目元には隈があるが、顔立ちは思わず目を引くほどに整っている。そして――長く尖った耳。衣服は無彩色の、簡素なシャツにパンツ。人間ではない男が、ミルダを射抜くように見据えていた。
「お前がミルディスカだな」
操り糸で引かれるような虚ろな仕草で、白い指先がミルダを指した。
「畑を焼け。お前がやらないなら、俺が焼く」
「……えっと」
男の青い目は、ミルダを逃さない。ミルダは返事に窮したが、
「とりあえず……あなた誰ですか? は、畑を勝手に焼かれるのは困りますけど、勝手に家に入られるのも困ります!」
一息に言い、目の前の男をにらみ返した。
――沈黙。少しの間にらみ合いが続いていたが、やがて男が視線を外し、ため息をついた。いきなり訪ねてきてため息とはご挨拶だ。正体不明の人物に対する恐れも忘れて、ミルダは唇を引き結んだ。
「俺は、お前の爺さんに言われて来た。ラドックは死んだが……あいつが生きているうちに言伝があってな」
「じいちゃんに……?」
男が一通の封筒を取り出し、顔の横でひらひらと揺らして見せる。封筒が黄ばんでいて、少し古いもののように見えるが、差出人として書かれている名前の筆跡は確かに祖父のものだ。つい目線が尖った耳に引き寄せられるが、今はそれを見ている場合ではない。
「ミルディスカ」
「ミルダです。みんなそう呼んでる」
「……はぁ」
またため息をつかれた。ため息をつきたいのはこっちだ。ミルダは、目の前の失礼な男をじっと見つめて視線で抗議する。男は実に面倒くさそうな顔をした。顔のパーツは恐ろしいほど整っていて、それだけで彼が人あらざるものだと本能が理解する。だが、目の下の不健康そうな隈とやさぐれた表情が、美貌をただの飾りにしていた。
男がミルダに歩み寄ってくる。不審者が入って来たぞ、と反射的にファイティングポーズを取ったミルダの目の前に、封筒が差し出された。
「俺にあてたものだが、お前にも読む権利はある。ラドックの孫なら、理解できる頭はあるだろう」
「し、失礼なひと……ひと? 人間じゃないのは分かるけど、とにかく失礼!」
「いいから読め」
相変わらず面倒そうな調子で言われて、ミルダは躊躇いながら封筒を受け取り、角を摘まんで透かしたりして確かめた。消印は数年前だ。
封を開けると、二つ折りの便箋が数枚。引っ掛からないように気をつけて便箋を取り出し、慎重に開く。そこには、見覚えのある筆跡でびっしりと文字が綴られていた。男の視線を感じて落ち着かないが、ここで男をちらりとでも見てしまったら、何となく我慢比べに負けた気になる。ミルダは男の存在を意識から追い払って手紙に集中した。
――親愛なるトリストへ。
そんな書き出しから始まり、季節柄の雑談や近況報告。話が逸れるのも、好奇心旺盛だった祖父らしい。
そして、男の名はトリストというようだ。「最初に名乗れ」と突っ込みたかったが、文句を言いたい気持ちをぐっと堪えて読み進める。
長々と綴られた世間話の段落を読んだ後、ようやく本題が現れた。
――気が早いと思われるだろうが、俺が死んだ後、孫娘のことを頼みたい。孫娘はまだ十になったばかりだが、俺に似ず利口で物覚えも早い。名前はミルディスカという。父母……俺の息子とその妻は、娘を遺して早々と死んでしまった。俺以外に身寄りのない娘だ。もちろん、諸々の費用は支払う。もし足りないなら、俺の家を売り払ってくれ。お前のことを、誰よりも頼りにしている。
ラドック・メルグ
最後まで読み終えて、一呼吸。手持無沙汰にしているトリストを横目に、何度か読み返す。
目の前の男が、祖父が最も頼りにしている存在であることは理解した。だが、幾つも疑問が湧いてきて、考えが上手くまとまらない。
「読み終わったな。俺が来た理由を理解したか?」
「理解はしました……けど、畑を焼く理由は理解できません」
「……ラドックは、お前を利口な娘だと言っていたんだがな」
じいちゃん、この男を信用して大丈夫なんですか?
思わず、写真の中で笑顔を浮かべる祖父を見た。価値観の違いか、尺度の違いか、トリストとは会話の歩調が上手く合わない。口角を引きつらせるミルダに、トリストは続けて言った。
「畑を見てきたが、あれは毒草の畑だな。いまはお前の手が入っているからいいが、毒草は繁殖力が強いものが多い。放っておくと、この村が毒草のせいで無人になるぞ」
「……私が面倒を見ているから、いいじゃないですか」
「そうはいかない」
トリストが、緩やかに首を振る。反抗心に溢れたミルダは、言い返す構えだ。
「ラドックは、俺に〝孫を任せる〟と言い遺した。今日ここに来たのは、お前の身元を引き受けるためだ。ラドックの遺言を俺に反故にさせるのか?」
反撃してやろうといくつも用意していた言葉は、使い所を失ってしまった。
トリストは、ミルダに「俺について村を出ろ」と言っている。祖父の遺言を盾に。だが、祖父の直筆の手紙と、自分を想って託した文章に反撃する術をミルダは持たない。だからといって、手塩にかけて育てた畑を焼くのは納得できなかった。
「……分かりました」
「ほう。分かったならいい。それなら、さっさと支度を……」
「まず、お茶にしましょう」
「ん?」
何を言っているんだこの娘は、と言いたげな目をトリストが向けてくる。
それに構わず、ミルダは開けっ放しだった玄関のドアを閉めて、手慣れた様子でお茶の準備を始めた。トリストはしばらく影のようにぼうっと立ち尽くしていたが、やがて諦めたのか、ティーセットが並べられたテーブルの椅子を引いて気怠そうに腰を下ろした。
