ある商人の成り立ちについて

 友達とたっぷりと遊び、家に帰ったら、そこには誰もいなかった。
 天井の汚れも、壁に刺さったピンも、棚も、そこに並ぶ本も、テーブルも椅子も、いつもと変わらない。ただ、両親の姿と、商品である骨董だけが忽然と消えていた。
 日が水平線に沈みかけ、バザーが夕日に照らされている。
 いつもであれば、両親はとっくに家にいる時間だ。少年はそう考えて、少し椅子に座って待ってみることにした。
 少年の両親は、いわゆる『普通の大人』だった。少なくとも、少年はそう思っていた。
 世界の商業の中継地ともいわれるこのゼンヴァ島で骨董商を営む、商人の一家だ。ただ、最近はいつもよりも両親の羽振りがよかったかもしれないな。少年はそう思いながら水差しを持ち上げ、グラスに水を注いで飲んだ。
 年の頃は7歳か、8歳か。少なくとも、まだ10には届いていない幼い容貌をしていた。健康的な褐色の肌に、暗茶色の髪を短く切って整えている。服装は遊び疲れて少しくたびれているが、おおよそ身ぎれいだった。
 少年は、その幼さに比べて落ち着きがあった。両親から「将来は後を継ぐように」と礼儀を叩き込まれて育ったからだ。それでも自由を拘束されていた訳ではないので、不自由を感じたことはなかった。
 最後のひと口を飲み終えて、少年はグラスをテーブルに置いた。部屋はだんだんと薄暗くなっている。そろそろ灯りをともさなければ足元も危ない。
 時計の音だけが響く室内に座っていると、なんだか不安になってきた。
 いつものように帰ってくると信じて疑わない心に、ちょっとだけ「もしかしたら帰ってこないかも」という疑念すら差し込んできた。大人びた落ち着きがあっても、まだ子どもは子どもだった。
 椅子に座っているのも疲れてきて、テーブルに突っ伏した。古い木の匂いがする。自分が生まれるより前からずっとある、よく使い込まれた四人がけのテーブルだ。
 ランプを灯さないと。お腹空いたな。そういえば明日は伯父さんがくるんだっけ。
 同時に色々なことをぐるぐると考えながら、少年はのろのろと席を立った。まず、ランプに油が入っているかを確かめて慣れた手つきで火をともすと、少年の顔はオレンジの光に照らされた。
 その時、玄関のドアがけたたましく開いた。

「パラヴィオ! ……お前はまだいたか……」
「えっ……伯父さん?」

 慌てた様子で飛び込んできたのは、少年──パラヴィオの叔父だった。
 気付いた時には、パラヴィオは膝をついた伯父に力強く抱きしめられていた。パラヴィオが何かを言う前に、絞り出すような声で伯父が続ける。

「ああ、良かった、良かった……! ……お前が無事で……」
「苦しいよ、伯父さん。……来るのは明日じゃなかったっけ」

 息が詰まるほどに強く巻き付けられた腕の中に、パラヴィオは身じろぎせず収まっていた。
まだ声変わりもしていない声に問われ、我を取り戻したように腕の力が緩まる。パラヴィオとよく似た 肌色の、褐色の逞しい腕だ。
 伯父は腕を解き、それでもパラヴィオを放さないようにと両肩に手を置いた。派手ではないが上等な金のブレスレットが視界の端できらりと光のが妙に目について、綺麗だなとパラヴィオは思った。

「明日の予定だったが、予定が変わって急いで来たんだ。無事か?何もされていないか?」
「何もって、何を? お父さんとお母さんは……?」

 余計な事を言った、というように、伯父の凛々しい眉が寄った。

「お前の父さんと母さんは、とりあえず今夜は帰らん。夕飯は食べたか?」
「ううん、まだ。帰ってくるのを待って、食べようと思っていたから」

 そう答えると、急に胃袋の中が空っぽになったように感じた。
 伯父はそうか、とため息を吐くように言って、ゆっくりと立ち上がる。パラヴィオの肩から片手が離れて、骨ばった指が、ぼんやりとした光を放つランプの取っ手をぶら下げた。

「なら、今日は伯父さんの家に行こう。ミランダおばさんが料理を作って待ってるからな」

 なんで? とパラヴィオは思ったが、それは言わなかった。いまは何かのっぴきならない事情があって、伯父は自分を連れて行くためにこの家に来たのだと察したからだ。
 その代わりに、ゆっくりと頷いた。すると伯父の腕が肩を抱いて、家から出ろと促すように軽く押された。
 半開きのドアから、人相の悪い男が首を突っ込んできた。

「おい、ラテムさん。そろそろ戻らないか? ここらの治安はまあ悪かないが、今はとても安全じゃねえだろう」

 頬に傷が入った悪人面の割に、声質は穏やかで聞き取りやすい。

「ああ。行くぞ、パラヴィオ。……あれは伯父さんの仲間だ、安心していい」

 叔父に押されるままに歩きながら、パラヴィオはきょろきょろと二人を見比べた。

「賢そうなお坊ちゃんだな」
「そうだろう、俺にも似てると思わないか?」
「あんたより男前だよ」

 家から出ると、パラヴィオは家の前に停められていた荷車に載せられた。馬が二頭繋がれており、手綱を握っているのは先ほどの頬に傷のある男だ。

「悪いな坊ちゃん、埃臭いだろう」

 幌の隙間から声を掛けられて、パラヴィオは首を振った。
「大丈夫です。えっと……」
「アーウィンだ。ラテムおじさんの商売仲間だよ」
「僕はパラヴィオといいます。アーウィンさんも伯父さんも、わざわざ僕だけを迎えに来たんですか?」

 伯父が荷台に乗り込んできて、幌を下ろした。パラヴィオの目の前に大きく膨らんだ鞄が置かれる。
 アーウィンの代わりに、伯父が答えた。

「そうだ。俺たちはお前を迎えに来た。……ひとまず、お前の荷物だ。必要なものがあれば、また後日取りに来ればいい」
「ありがとう。でも、どうして?」

 パラヴィオは幼い子どもだが、察しの悪い子どもではなかった。むしろ、幼いからこそ勘が鋭い部分もあった。伯父は言葉を選ぶように眉間を揉んでいたが、その沈黙が既に答えだった。
 どうやら、自分には教えられない「何か」があったようだ。
 がたん、と大きく揺れて、荷車が出発した。

「家に帰って、飯を食ってから話すよ。今はまだ、お前も混乱しているだろう」
「……わかった」

 そう言ったきり、パラヴィオは荷車の中では伯父に何も問い掛けなかった。
 ゼンヴァの土地は、綺麗に舗装されている道は少ない。幾つもの島を海路で中継するため、あまり陸路に金が割かれていないのだ。そして、それを気にする者もあまりいなかった。
ご とごとと上下左右に揺れる荷車の中で、パラヴィオは鞄を枕にしながら寝転がり、伯父に背を向けて寝たふりをしていた。その方が、気まずさも、自分に起こった良くないことも、今は紛れる気がした。

「利口すぎるってのも難儀なもんだな。どういう教育したんだか……それとも気質か?」

 馬を走らせながら、アーウィンが嘆くようにぼやいた。

***

 荷車で揺られて二、三時間ほどは経っただろうか。
 伯父──ラテムに揺り起こされて、パラヴィオはゆっくりと体を起こして伸びをした。まるで今までうたた寝をしていたような調子で。
 もちろん、眠れるわけもなかった。子どもの世界は狭い。普通の子であれば、世界の中心は父母、そして家族なのだ。
 父と母は一体どうしてしまったのか。十にも満たない子どもにとっては、泣き喚いても致し方ないほどの不安だった。けれどパラヴィオは、時折ラテムやアーウィンに不安そうな視線を向けて窺うだけで、それを言葉にすることはなかった。
 パラヴィオとラテムを送り届けると、アーウィンは空になった荷車を馬に引かせて帰って行った。
夕食を食べて行ったらどうかとラテムが言ったが、明日も早い時間に商談があるからと言って聞かなかった。きっとパラヴィオを気遣っているのだろう。もしくは、一人だけ余所者なのが気まずいのかもしれない。大柄な体格に人を威圧する人相だが、案外繊細なようだった。

「おかえりなさい。久し振りね、パラヴィオ」

 ドアを開けると、エプロンを着けたままの女性がパラヴィオを迎え入れた。ラテムの妻であり、パラヴィオも何度も顔を合わせたことのあるひとだ。
 柔らかく癖のある金髪を一つに束ね、白い肌は血色がよく赤らんで見える。彼女のルーツをパラヴィオは知らないが、どうもゼンヴァの島外から嫁いできたとの話だった。

「こんばんは、ミランダおばさん」
「さ、入って入って。夕食の準備は出来てるから。あなたも」

 ミランダが同じような調子で言いながら、二人を家の中に招き入れる。促されるまま家の敷居を跨ぎながらそっと目を上げると、ミランダがラテムに目配せをしているのが見えた。
 それが何を意味するのか、パラヴィオにはわからなかった。しかし、突然夫が連れ帰った義弟夫婦の息子を受け入れるのだ。きっとおばさんも何か知っているのだろうとは思った。
 食卓には、とても三人分には見えない量の料理が並べられていた。
 海藻と葉野菜のサラダ、かぼちゃのスープ、綺麗な焼き色のついた魚のパイ、鳥肉のステーキ、焼きたてのパン、クリームチーズが添えられたクラッカー。その他に、あまり見覚えのない大皿料理がいくつか。
椅子に座らされたパラヴィオが目を白黒させていると、その隣にラテムが腰を下ろした。

「さすがに作り過ぎじゃないか? どう見ても五人前はあるぞ」
「パラヴィオは食べ盛りでしょ。これくらいあった方がいいと思って」
「お前なあ……パラヴィオはまだ十歳にもなってないんだぞ」

 それを聞いたミランダの目が、一瞬悲しそうに細められた気がした。しかしすぐにナイフを持ち、気を取り直すようにパイを切り分けていく。

「しょうがないじゃない、普段は子ども用の料理なんて作らないんだから」
「僕はなんでも好きだよ。美味しそうだね、おばさん」
「ああもう、なんっていい子なの! どこかのオジサンにも見習ってほしいくらいだわ」

 ミランダが機嫌よさそうに笑いながら、パラヴィオの目の前の皿に大きく切ったパイを取り分けた。具がぎっしり詰まっていて、香草と魚のいい香りがパラヴィオの鼻腔をくすぐった。
 ずっと空っぽのまま忘れられていた胃袋が、思い出したようにぐうと音を出した。
 それを聞いたラテムとミランダが笑う。パラヴィオは気恥ずかしくなって、思わず視線を落とした。

「ほら、早く食べましょう。お腹空いてるでしょ、パラヴィオ」
「そうするか。おばさんは計量が苦手だが、料理は上手だぞ」

 ミランダがラテムを睨む。パラヴィオは思わず少しだけ笑った。なんだか、ずいぶん久し振りに笑ったような気がした。
 フォークでパイをひとかけら切って口に運んで、それからは夢中だった。ミランダおばさんの料理は、どれもこれも美味しかった。あまり食べたことのない味付けだったが、肉の焼き加減は丁度良かったし、パンはふわふわでほんのりと甘かった。
 料理を食べているうちは、空っぽになってしまった自分の家のことを考えずに済んだ。
 パラヴィオは胃に料理を詰め込むように食べたが、それでもミランダの料理は多かったようで、三人でかかっても半分ほどは残ってしまった。

「これはまた明日食べましょうか」

 パラヴィオが水を飲んでいる目の前で、ミランダが残った料理に覆いをかけていく。
 半分ほどまで減ったグラスの水面を見下ろしながら、パラヴィオは口を開いた。

「伯父さん。お父さんとお母さんはどうしたの?」

パラヴィオの隣で、ラテムが小さく唸った。

「……飯、食い終わっちまったしなあ」

 ちらりと盗み見ると、ラテムは渋い顔で黒髪を掻いていた。父にそっくりの、硬くてコシのある黒髪だ。向かいで、ミランダがそっと息を潜めて窺っているのを感じた。
 大きくて逞しい手が、パラヴィオの肩に置かれた。パラヴィオは驚いて体を跳ねさせる。
 顔を上げると、真剣な顔をした伯父と目が合った。

「お前の父さんと母さんは、仕事の関係で島を出ることになった。……出ざるを得なかった、と言った方がいいか。ともかく、暫く帰ってくる予定はない」
「帰ってくる予定、あるの?」

 パラヴィオが問い返すと、ラテムはぐ、と苦しそうに言葉を呑んだ。
 記憶によると、伯父さんはゼンヴァではそれなりに名の知れた大商人のはずだ。普段は言葉を武器にする彼が分かりやすく言葉を探している様子は、少し面白かった。
 子どもには言えない、聞かせられない事情があるのだろう。

「……それは、分からん。俺の仲間が調べているところだ」
「あなた、それでも商人なの!? 私の方がまだ上手に説明できそうじゃない!」
「ちょっと黙っててくれ! ……ともかく、お前は心配するな。今は風呂に入って、ベッドでゆっくり眠ればいい」

 伯父さんの声は、お父さんにちょっと似ていた。
 聞きたいことはたくさんあったような気がしたが、難しいことは何も分からないし、結局最後には「両親はどうなったのか」に行きつくだけだ。パラヴィオは大人しく頷いておくことにした。

「わかった。……明日から、僕はどうすればいい?」
「それは、おばさんとも話し合ったんだがな……しばらく、おじさんの家で住むのはどうだ? お前が嫌じゃなければだが」

 ラテムもミランダも、パラヴィオが顔色を窺っていることを理解していた。パラヴィオも、二人が自分を見る目がどんなものかを理解していた。
 その日から、パラヴィオは生家を離れて、伯父の家に住むことになった。
 二階の廊下の突き当りの角部屋が、パラヴィオに与えられた部屋だった。二人にとっても突然の話ではあったようで、急いで掃除をして、人が寝泊りできるように整えた痕跡があった。
 風呂に入れられ、持ってきた荷物の中に入っていた寝間着に着替えてからベッドに入る。
 ここは自分の居場所ではない。でも、元いた場所に戻っても、ひとりではとても生きていけないことも幼いながらに理解していた。
 暗い部屋で布団に包まると、やっと息ができた気がした。ずっと緊張して、大人の顔色を窺っていたのだと気づいた。
 同時に、じわりと目元が熱くなって、視界が滲んだ。目尻を生温かいものが伝い落ちて、枕に吸い込まれていった。
 今朝、友達と遊びにいく時に別れた両親と、もう会えなくなってしまった。伯父さんが何とかしてくれると言っているけど、何とかなるかもわからない。
 これから、僕はどうなってしまうんだろう。
 ずっと混乱して、理解できずにいた現実に打ちのめされて、幼い少年は上等な布団を頭まで被って泣いた。
 いつの間にか泣き疲れて、眠りに落ちていた。

***

 深夜。片付けられたテーブルの上には、書類が数枚広げられていた。
 その一枚に目を通しながら、ラテムは厳しい顔でため息を吐く。

「レザックの奴、近頃やけに商売の調子がいいと思っていたが……」

 紙面には、『取り急ぎ』と書き添えた報告が記されていた。レザック──パラヴィオの父についての調査報告だった。
 ゼンヴァ島は、複数の島から成る自治国家だ。近頃、あちこちの島からちらほらと怪しい報告が上がってきていた。
 曰く、夜逃げのように忽然と人が消える。信用詐欺のような手口も横行しているようだ。
 そして、法治国家であれば「裏社会」と呼ばれる場所にある、人道に反する生業を営む組織が絡んでいるとも。
 ラテムはそれなりの大きさの商会の代表だ。当然、その報告についての詳細も耳に入っていた。
 報告書に目を通しているラテムの前に、白い陶器のカップが置かれた。芳ばしいコーヒーがなみなみと注がれていた。
 寝間着に着替えたミランダが、心配そうな顔をしている。

「ああ、すまないな……ミランダ」
「何とかなりそう?」
「分からん。ただ、似たような報告は今までにも何件か上がってきていてな。レザックたちもそれに巻き込まれたのかもしれない」
「それじゃあ……?」

 ラテムは難しい顔で言葉を濁した。パラヴィオは聞いていないだろうが、気軽に口にするわけにはいかなかった。

「何にしても、あの子にはここで暮らしてもらうことになる。パラヴィオが居合わせなかったのは幸か不幸か……」

「幸に決まってるでしょ。レザックとマティカが無事なら、それが一番いいけど……子どもは何も悪くないものね」

 ミランダが目を伏せる。ラテムは報告書を置いて、階段がある方向を見た。パラヴィオはそろそろ寝付いている頃だろうか。
 あの子どもが、ずっと皆の顔色を窺って、大人が求める言葉を探していることには気付いていた。
 その父であるレザックは、将来は息子も一人前の商人にして跡を継がせるのだと、いつも周りに自慢していた。
 そして、自慢する通りの利口な息子だった。

「ああ。あんなに幼いのに俺たちの顔色を窺って、利口にして……さすが、商人の息子だな。向いているよ」